昭和49年04月01日 勧学祭のご挨拶



 皆さんおかげを頂きました。今日はお月次祭に併せて勧学祭が行なわれました。引き続いてこう云う会合が持たれまして、お祝詞の中にも申し上げました様に、教祖の神様も「わかば、わかば」とお呼びになって、子供達の参拝を非常にお喜びになったそうで御座います。そして、知恵分別が愈々付いて行く事を神様にお願いしようと云う事を教えられたと云う事で御座います。
 先日、三四日前だったでしょうか、麻生さんの奥さんが二十八日の竹葉会の日でした。ですから、何時も月次祭、それからああいう婦人会の会合と云う様な時だけしかお参りが出来ません。それはもう月次祭にはキッチリした事でお参りがあります訳ですけれども。三人の子供さんに恵まれておられますから、その言うなら引いたり、負うたりしてお参りになります。それでここでお届けされますのに。
 一番長女の今年から、丸少に入会させてもらえると云う事を、大変子供がもうそれこそ色々の準備に大わらわで、喜んでおります」と言うて、もうそれは子供の喜びよりも親の喜びの様な感じでお届けになりました。その事を私神様にお届けをさせて頂いておりましたら、神様から「子と遊び、夫と語り、妻の春」と云う句を頂きました。[子と遊び 夫と語り 妻の春]その例えば、この中から感じられます事、皆さんどう云う風にお感じになるでしょうか。けれども、本当に家族が勢を揃えて信心をしておる様子。
 また子供も子供なりに、お道の信心を通して丸少に入らしてもろうて、その準備に家族中が大わらわで、楽しげな家庭の信心の雰囲気を感じ取らせて頂きます。そう云う家庭の中にお育てを頂くと云う事が、私は神様の言うなら、只子供の事を願わない親はおりませんから、只学問なら学問が出来ます様に、健康なら健康であります様にと云う願いは持ちましょうけれども、夫婦が親子がそう云う雰囲気の中に、願い合いそして祈り合うて、そう云う信心生活の営まれる所に。
 私は良い子が育ち良い信心の教養が身に付いて来ると思うのです。それを信心の教養と云う物は、もう心の芯から、小さい時から染込んだ物が一番尊いと思います。皆さんのご子弟の中にもまあだ入会が出来てなかったり、信心がまだ子供だからいつかと云う様な事ではなくて、やはりそこがまず、私はお導きだと思います。これはお導きと云う事は、どこかに困った人がおるから、または自分の周囲に感心を持った人があるからお導きをするではなくて、まずは自分自身の家庭の中からです。
 一人が信心さして頂いたら、家族中が、それは子供たちに至るまでが、そう云うおかげを頂いておくと云う事が有難い事だと思います。今朝から皆さん朝の御理解に、聞いて頂いたんですけれども、今日は丁度この四月一日のお月次祭に何時も、私の誕生日に当たりますので、皆さんが色々と心を尽くして下さって、お祝いをして下さいます。もう昨日も、あちらこちらからお参りが出来ない方達やら、お祝いに来て下さったり、勿体ない位な贈り物をして下さったり。
 丁度御神前に全部それを供えさせて頂いたんですけれども、それには勿体ない事だと思います。本当に信心も出来ませんのに神様が此の様にして、まあ祝福をして下さる。私は思うんですけれども、誕生日はお祝いです。と云うので、自分がもう今日は何十何歳になったからお祝いをすると云うのでは、私は本当ではないと思うです。この世に言わば生を受けさせて頂いて、果たしてその生を受けた今日私が世の中に又は家庭の中に、どれ程お役に立っておるかと。
 言うならあなたが誕生したおかげで世の中がこのくらい明るくなったと言う様な、世の中がこの位整うてきたと言う様な、そういう働きを私は有難しとするのであって、ひょっとすると、私共が世の中の邪魔になっている様な事があるかも知れんのです。ですから是は私は天地が祝福して下さる。神様が喜んで下さると云う、私共にならせて頂かなきゃならないと思うんです。
 なら私自身が信心が出来ておると云う事では御座いませんけれども。それこそ今朝私はその事をお礼申させて頂いておりましたら、あれは元浪花節の流行歌手がおりますですね。三波春夫さん、あの人のまあその何ですかね、キャッチフレーズと言うでしょうか、何か挨拶の言葉に、必ずその、言うそうです。「お客様は神様です」と言う。「お客様は神様です」と言う様に、お客様をそのように大事に私は思うとりますという意味でしょうね。その事を頂くんです。
 ですから私はどう云う事かと言うと、「御信者の皆さんは、私に取って神様です」と云う事になるです。ですから本当言うたら、皆さんがこちらへ今日は上がって頂いて、私が下座の方から拝まにゃいかんと云う事になるのですけれど、私は思うんです。ここで信心の稽古をさして頂いておる方達が、全ての事を天地の神様の御恩恵として、その御恩恵に対し奉っての生活を、信心生活だと申しております。
 言うなら私に誕生のお祝いをして下さる。私の誕生を祝福して下さると言う方だけが神様ではなくて、実を言うたら、私には反対の人があるかも知れません。私の為には、鬼やらに見える様な方がありましても、やはり、それは神様の御働きなのです。私に祝福して下さる方だけが神様ではない。その例えば私をいじめるとがあると致しましょうか、その方のおかげで私が力が付くと云うと、その人がいじめたのではなくて。
 神様が私に力を与えて下さろうとする御働きによって、その方が使われたと云う事になるのですから、その方が神様と云う事になるのです。もう全てがそのおかげ。今日は御理解三節の「天地金乃神と申す事は」と言う御理解です。「神社仏閣の屋敷も皆神の地所」と。「日柄方位ばかり言うて天地に対して無礼を致し、前々のめぐりで難を受けおる」とか。そう云う判らない、言うならば、根本的、人間の生き方の間違いを指摘されておるのが、あの御理解三節であります。
 だからそう云う氏子におかげをわたし、そして理解申して聞かして、「本当の生活に入ってくれよ」と言うのが、金光大神に対するところの神様の願いであります。今日の皆さんお求め頂きましたでしょうか。黄ない表紙の丸少が今度大変、それに中にも出ていましたけれども、ヨーロッパの何とか言う予言者が、四百二十年前にね、予言しておるそれがもう的確に九十九パーセント的確に当てておると云う事。その人の言うておる事がもし事実とするならです。
 「二十年後にはこの地球上の人類がもう無くなってしまう」と予言しておるそうです。それをそう云う事にそらなるかも知れません。まあなると致しましてもです。もうそれこそ、その事を少年少女会は書いておる中に「もう親先生と一緒ならよか」と言った様な事で書いてるんです。ですから地球が破滅して、又は人類が皆死滅を致しましてもです。魂の世界までは壊す事は出来んのです。ですから私共がです。皆この世で魂を清めておかなくしていつ魂を清めるか。
 魂を清めてそして地球が破滅して人類が無くなっても、言うなら魂の世界は魂は不滅であり、魂の世界は永劫であると云う事で御座います。けれども、私共はなんとかして助かりたい。いや助からなければ金光大神に対して相済まん。なぜと言うて、百数十年前に「この度金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と言うてあるのが、御理解三節であります。
 「この度金光大神を差し向け」例えば四百二十年前には、何々と言うヨーロッパの人に、「お前達が今の様な生き方で行っておったら、自然に反する様な、天地の大恩も分からん。天地の御恩徳も知らん。そして天地の中に言うならば天地に弓を引く様な、日柄が良いの悪いのと。これは私の地所だ、これは私の家だと云う様な、思い方の生き方をさせて頂いたら、本当に四百二十年後には人類破滅するぞ」という言わば大警鐘を、言わば天地が為しておられる。それが本当だぞ。
 本当だと言わんばかりにです。その予言しておる事が的確に、その予言通りに合っておった。言うならば、大東亜戦争とか、広島長崎の原子爆弾投下なんかも、ピタリと予言してあったそうですからね。実を言うたら恐ろしい事なんです。しかし「まあだ二十五年もあるから、そん時はそん時たい」と言うたんではね、私は金光大神がこの世に御出現下さった。いや金光大神を差し向けて下さった値打ちがないと思うのです。よしそんなら破滅しましてもです。
 魂の世界だけは永遠であり、魂は不滅であり、魂の世界は永劫であるとするならばです。私共が愈々有難い魂の世界を送らして頂くためにも、この世で魂を綺麗にするとか、清めておくという働きは、この世でなからなければ出来んのです。それを私は本気で金光大神の御教えに基づいておかげを頂き、そして理解を頂かせてもろうて、その御理解によって私共がです。天地の大恩を悟らしてもらいたい。
 天地の大恩を判らしてもろうて、日々の神恩報謝の中に、生活をさせて頂くならば、私は此の事を聞かせて頂いてもう四五日前、私が予言すると言うて、皆さんに聞いて頂いた。私の言う事を聞くならば、よし周囲がそうなっても、私の言う事を聞くならばです。金光大神の言われる道をたどるならばです。金光様の信心をしとればじゃないです。知とったって、そう云う姿勢が出来ておらなければ同じ事。
 その時私は神様から頂きましたですけれどもね、「人間が自分で自分の首を括る様な事をするから」と云う事を頂きました。忙しい、「そりゃもうおかげ頂いてもう参る暇もありません」。これは自分自身をもうがんじがらめに絡めておる様な生き方なんです。ですから、私共がおかげを頂けば頂く程、真の道に精進させて頂くと言う願いを持っての信心をさせて頂いておらなければです。二十五年後が不安である。「そんな事があるもんか」と例えば言うて、なかってもです。
 あってもです。清めて行けば清めただけは自分の物なんですから。頂いた力は私の物なのです。先日も安東さんの、昨日があちら家移りをなさいました、吉井の方へ。大変立派なお家だそうです。もう本当に車を入れる車庫でも人間が住んで良い程しの立派な家だと云う事です。所が是がいろんな問題が御座いました。ですからその問題のある度んびんに、色々神様にお願いさして頂いておりましたら、神様から「御の字を付けて」と云う事を頂いた。だからそれは誰々さんの家ではない。
 私が買ったから私の家ではなくてです。神様の御家だとして頂いた時にです。問題は一切解消するのです。解決するのです。解決しました。自分の家私が家と云うのではなくて、神様の御家であり、御家であり御屋敷なのである。そう云う頂き方なんです。もっともっとここでは言うならば、天地の道理を皆さんに朝晩聞いて頂いて、その天地の道理に合うて行く生き方をする人の上にです。自分で自分の体を縛ったり、または首を絞めて行く様な事にはならず。
 もう広がりに広がって行く所の道が、私は約束される事を、私は断言するだけでなくて、予言致します。そう云う尊い道に私共はご縁を頂いておる訳で御座いますから、その道を道たらしめなければです。「金光様の御信心を頂いております。拝んでおります。おかげを頂いております」と言うだけでは、何にもならんのです。そこでです。私共がそう云うおかげを頂いて、例えば知恵分別と云う事でも申しますけれどもです。
 大学は出たけれども、その大学で勉強した学問が却って自分を縛るような、教祖様の御教えの中にもありますが、「学が身を食うと云う事がある」とおおせられます。学問しとるばっかりに、有り難い道も信じられない。学問しておるばかりに、良い知恵を働かさずに、悪い知恵を働かせると云う様な人すらがあるのです。そこでです。やはり信心に基づいての学でなからなければならない、知恵分別でなからなければいけないと云うところから、頂きましてもです。
 愈々信心の教えを元にしての生活であり、勉強でなからなければならないと云う事を一つ心にしっかり頂いて頂きたいと思います。先程お祭りを終わらせて頂いて、そこに下がらせて頂いております。そしたら高橋さんが「先生、こげなとが来ております」と言うて、それはもう前に一遍九州百年記念に、こういう全国のね有名な方達の、そりゃもう、明治天皇、大正天皇、近上陛下を先頭に、言うなら略歴とかね、その色んな、その人の功績と言った様な物を、讃えて載せてあるご本です。
 それが丁度私がお祭の下がった時に出てきたんです。まあいっちょありゃ何か、【 】言いよったけれどもね。そしてこんな大きな写真まで、これはここの全景です。下の写真は。上のこれは私の写真です。そして私が和賀心と云う事を大変に好きな言葉としてです。その事に精進しておると云う様な事がずっと書いてあります。だからこう云うご本に載ったからとか、載らないとかと云う事ではありません。載っておると言えば沢山載っておるのですからこの中に。
 けれどもね私の今日の誕生日にですよ。しかもお礼を申し上げて下りた所に、是が来ると云う所にです。是は何時もの事ながら、是は神様の御祝福が本当な物だなと言う事を感じずにはおられません。皆さんはどうでしょうか。そりゃ丁度と言う訳には行きませんです。だから是は結局、天地が私に捧げて下さった様な気がするんです。だからお互い私共がね、この世にこうしておかげを頂いておると云う事がです。そのまま神様のお喜びに通ずる現代でなからなければならないと云う事で御座います。
 ただ「神様お願いしますお願いします」と言うて、神様にご迷惑だけをかけておると言った様な信心では、本当な事ではないと思うです。それも尚更です。先程から申します様に、二十五年後の事を「そんな事が」と、例えばそう云う事を聞かせて頂いてです。そんならば、そこから助かれる道はないものか、破滅をせんでも済む様な道はないものかと私は求める人がないと云う事は、実に残念だと思う。
 私はその話を文男先生から二十五日の研修会の時に聞かせてもろうて、何か自分の心に、「そげな馬鹿な事が」と思いながらも「そんな事を言うけに人心を乱すんだ」と行った様なふうに思ったりしましたけれども、兎に角心に引っ掛かるんです。しかも的確に、四百二十年間の間に、四百年ですね結局、四百年間に起きて来る事を一々予言してあったのが的確に当てておると云う事実をです。
 聞かせてもろうてから、神様にお願いをさせて頂いたら、今申しました様に、人間が自分の知恵で、自分自身の世界を、言わば【   】にしてしまう。言うなら自分で自分の首を括っておる様な姿だ。そこで、なら首を括る生き方ではなくてです。もう広がりに広がって行く道はあるんだと云う事です。そう云う道をです。私共は本気で体得させて頂けれる道があるなら、教えてもらう所があるなら、本気で研究しとかなきゃいけんと云う風に、最近しきりにその事を思います。
 そして私共の今日の此処にあると云う事が、天地が喜んで下さる。天地が感動して下さる。天地が、お前がこの世に生まれたおかげで、神も助かりと云う様な事にもなり、そこから、氏子も立ち行くというおかげにもなり、あいよかけよで立ち行く、本当の「神人共栄」と申します。神様と人間とが一緒に栄えて行く道をです。金光大神は百数十年前に「この度金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ。あいよかけよで立ち行く道を…」と百数十年前に。
 例えば今日ある事を天地の親神様が、此の儘行ったら潰れるんだけれども、ここに百年前に、教祖金光大神をこの世に差し向けて下さって、その金光大神の導きによって、言わば潰れんで済む破滅せんで済む様な道をです。金光教祖が道立てを、道立てておられるので御座いますから、私共はその信心に愈々深い【   】を持たなければいけないと思うので御座います。
   有難う御座いました。